さらに、2003年にHMVによる日本史上最高のトップポップアーティスト100に選ばれる。 [4], KISSを髣髴とさせる派手なメイクや金髪を逆立てた髪型、派手なライブパフォーマンスは「ヴィジュアル系」と呼ばれるジャンルを生み出し、その先駆者ともなった。, いいバンド名を思いつかなかったので、一時的に仮の名前として「X」と名付けた[5]。その後、YOSHIKIがXという文字の意味を調べたところ、Xには「数多くの可能性」という意味があることが分かり[5]、後付けで「無限の可能性」とジャンルにとらわれないという意味であるとした。その後、世界進出にあたりアメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月のHEATH加入発表と共にX JAPANに改名した。, 幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのハードロックバンド「KISS」の話をする間柄であり、共にバンドを組む約束をしていた。, 小学6年の時にDYNAMITE(ダイナマイト)(1977年 - 1978年)[6]、中学校に進学後NOISE(ノイズ)(1978年 - 1982年)を結成。主にレッド・ツェッペリン、UFO、レインボーなどのコピー曲を中心に演奏[7]、中学校の予餞会が初ライブだった。その後、通っていた中学校が生徒増加に伴う分割によりボーカルが別の中学に編入されたため、当初ギターだったTOSHIがボーカルに転向。地元の安房高校に進学した2人はその後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年夏、高校2年生の時に始めたのがX[注 1]だった。高校時代の文化祭では「We are X」、当時は未完成だった「I'LL KILL YOU」などを演奏していた[8]。, 高校卒業後の進路として音楽大学の推薦入試を受験する予定だったYOSHIKIが、入試1週間前に進学を取り止めロックバンドとして成功する道を選び、1984年にTOSHIと結成時のメンバーのTERRYと共に活動拠点を東京に移した。又、ベース担当のATSUSHI、ギター担当のTOMOが加入した。, 上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられた。同年6月、1作目のシングル「I'LL KILL YOU」をDada Recordsからリリース。1986年にYOSHIKIが自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立し[9]、2作目のシングル「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーは常に流動的で、YOSHIKIの1日十何時間も練習する姿勢に見切りを付けられることが原因であることが多く、存在が判明していないのを含めると脱退したメンバーは20人は超える。YOSHIKIも難しい注文に答えてくれるだけではなく、自分の方針に忠告をしてくれて、且つお互いの個性を認め合い、尊敬・成長し合えるメンバーを探していた[10]。, その後、一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。1987年ビクターから発売されたオムニバス・アルバム『SKULL THRASH ZONE Vol.1』のレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、SAVER TIGERを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。交通事故を起こしたISAOの脱退後にPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のメンバーが揃った。, ライブ・ハウスでは、メンバーが暴れて火を吹いたりYOSHIKIがシンバルにガソリンを注いで燃やすなどのパフォーマンスを敢行し、数々のライブハウスから出入り禁止となった。打ち上げでも喧嘩が絶えず店がメチャメチャに壊れるなどトラブル続きだったため、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る際にはYOSHIKIがいないか店にチェックされた程であり、当時のインディーズメタル事情に詳しい漫画家の喜国雅彦によると、当時の渋谷の居酒屋はミュージシャン同士の喧嘩が多かった事から「ギターお断り、ミュージシャンお断り、バンドマンお断り」極めつけは名指しで「Xお断り」と貼り出された店もあったという[11]。その特異な行動から、HIDE率いるSAVER TIGER、TAIJIが在籍したDEMENTIAと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシングの対象になった。なお、当時DEMENTIAに在籍していた小杉茂(現ハウリング・ブル・エンターテイメント代表取締役社長)によると、この呼び名の名付け親はUNITEDのメンバーではないかと推測している[12], 「いくら良い曲を作っていても聴いてもらえなければ意味が無い」という考えから「知名度が必要」と判断し、日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ! メイプル超合金 消え た, くわしい英語 中2, 3月上旬 ユニバ 服装, イチロー メジャー 成績, 高齢者 景品 手作り, チェルシー ユニフォーム レプリカ, リバプール スカウス, 丸山礼 韓国語, 影山優佳 受験, 銀魂 映画 主題歌 Uverworld, 〜」。, 2016年、ドキュメンタリー映画『We Are X』(監督:スティーブン・キジャック)が、第32回サンダンス映画祭のワールドシネマドキュメンタリー部門にノミネートされ、最優秀編集賞を受賞した[47]。1月23日に米国のユタ州でワールドプレミア上演を開催[48]。3月18日、SXSW 2016で、EXCELLENCE IN TITLE DESIGN部門の観客賞を受賞[49]。, 同年2月3日、PATAが大腸憩室炎および門脈血栓症のため入院したことにより一時活動休止を発表[50]し、3月11日にリリース予定であった約20年ぶりのスタジオ・アルバムを延期、それに伴い3月12日に予定されていたイギリスのウェンブリー・アリーナの公演も延期[51]。開催すれば同会場で「日本人初」となる公演だったが、その称号を、当初2番手となる予定だったBABYMETALに譲る事となった[52]。, 3月18日、SXSW 2016のYOSHIKIのスピーチにて、PATAが退院したことが明らかになった[49]。, 2016年10月14日~10月16日、『VISUAL JAPAN SUMMIT 2016』開催[53]。, 2016年12月23日、『MUSIC STATION SUPER LIVE 2016』出演。25年ぶりに「Silent Jealousy」を披露した。, 2017年3月4日(日本時間3月5日)、イギリス:ロンドンのウェンブリー・アリーナ公演。XJAPANの海外の単独公演は2014年10月11日に行われた「X JAPAN LIVE AT MADISON SQUARE GARDEN」以来約2年半ぶりの海外公演。, 2017年3月31日、ニコニコチャンネル「YOSHIKI CHANNEL」の特別番組にて、同年6月に21年ぶりのニューアルバム「X JAPAN」をリリースすることをYOSHIKIが発表[54]。, 2017年7月 「X JAPAN WORLD TOUR 2017 WE ARE X Acoustic Special Miracle〜奇跡の夜〜 6DAYS」[55]を11日〜12日に大阪城ホールで公演、14日〜17日まで横浜アリーナで公演。, 2017年12月31日 第68回NHK紅白歌合戦に出場[56]。曲は「ENDLESS RAIN」と「紅」[57]。YOSHIKIは約半年振りにドラム演奏をした。, 2018年4月10日、11日に「XJAPAN復活10周年記念 XJAPANLIVE2018 アメリカフェス出演直前 PREMIUM GIGS 〜YOSHIKI復活の夜〜」と称した単発ライブがZepp DiverCityで行われた。 株式会社ONPA JAPAN 東京オフィス . 乃木坂 アルバム 売上枚数, 全員の担当パートが変わっている。最後の演奏となったライブ、『破滅に向かって』でもYOSHIKIはギター担当になっているが、ギターを抱えてステージを走り回っているだけで、実質的にこの時のギターはTAIJI一人だけであった。, 2月25日 神楽坂EXPLOSION3月24日 新宿HEAD POWER5月20日 渋谷屋根裏6月11日 目黒鹿鳴館[注 5]6月17日 四谷FOUR VALLEY6月20日 渋谷屋根裏[注 6]6月26日 神楽坂EXPLOSION6月29日 神楽坂EXPLOSION, 1月10日 四谷FOUR VALLEY[注 9]1月31日 神楽坂EXPLOSION4月2日 渋谷LA-MAMA4月6日 千葉TADAYA, 5月13日 大阪BAHAMA5月14日 枚方ブロウダウン5月15日 大阪CANDY HALL5月17日 大阪YANTA鹿鳴館5月18日 大阪堺JURI5月19日 東大阪CENSUS HALL, 11月23日、24日 目黒鹿鳴館11月29日 大阪BOURBON HOUSE11月30日 神戸CHICKEN GEORGE12月2日 京都VIVRE HALL12月3日 豊橋かごやホール, 3月22日 豊橋かごやホール3月24日 広島WOODY STREET3月26日 神戸FISHDANCE HALL3月28日 京都BIG BANG3月30日 大宮FREAKS'4月2日 前橋RATTAN4月3日 新宿SF LIVE THEATER, 6月2日、3日 目黒鹿鳴館6月6日、7日 渋谷EGG-MAN6月13日、14日 広島WOODY STREET6月16日 小倉IN & OUT6月17日 福岡徒楽夢Be-16月19日 松山CRAZY HORSE6月29日 前橋RATTAN7月1日 横浜 7th AVENUE7月2日 大宮FREAKS'7月4日 名古屋FLEX HALL7月5日 豊橋かごやホール7月7日 沼津松乃ホール7月16日 金沢VANVAN V47月17日 新潟WOODY7月19日 仙台FORUS MORNINGMOON STUDIO 7月20日 青森FREE SPACE 1/37月22日、23日 札幌MESSE HALL7月25日 旭川STUDIO9マチイホール7月26日 北見夕焼けまつり, 10月8日 大宮FREAKS'10月9日 豊橋かごやホール10月11日、12日 大阪BOURBON HAUSE10月14日 福岡徒楽夢Be-110月18日 名古屋ハートランドスタジオ10月20日 仙台CAD HALL10月22日 秋田FORUS MORNINGMOON STUDIO10月23日、24日、25日 札幌MESSE HALL10月30日 川崎CLUB CITTA', 3月13日 群馬県民会館小ホール3月16日 渋谷公会堂4月22日 川崎CLUB CITTA'4月25日 大阪厚生年金会館中ホール4月26日 広島県民文化センター4月28日 熊本郵便貯金会館4月29日 福岡都久志会館5月6日 イズミティ21小ホール5月8日 札幌道新ホール5月10日 青森市民文化ホール6月3日 長野NBSホール6月7日 金沢教育会館6月10日 日比谷野外音楽堂6月13日 新潟市音楽文化会館, 9月29日 浦和市民文化センター10月1日 仙台電力ホール10月2日 盛岡教育会館10月4日 山形県県民会館10月5日 秋田県児童会館10月10日 大阪厚生年金会館10月12日 川崎産業文化会館(現在の名称「川崎市教育文化会館」)10月14日 栃木会館大ホール10月19日 岡山市民文化ホール10月21日 神戸文化大ホール10月26日 熊本郵便貯金ホール10月27日 長崎市平和会館10月30日 福岡ももちパレス(YOSHIKI体調不良により延期)10月31日 広島郵便貯金会館ホール11月2日 愛媛県民文化会館サブホール11月5日 名古屋市公会堂11月7日 群馬音楽センター11月8日 水戸市民会館(ドラムソロ直前にYOSHIKIが倒れ中断、振替)11月11日 長野県民文化会館中ホール11月13日 富山県民会館11月14日 福井県民会館(延期)11月16日 静岡市民文化会館(延期)11月22日 渋谷公会堂(YOSHIKIの過労性神経循環無力症で以下ツアー延期決定。)11月23日 渋谷公会堂11月25日 青森市文化会館11月27日 札幌市民会館11月29日 郡山市民文化センター12月21日 名古屋市公会堂12月22日 石川厚生年金会館12月24日 新潟産業センター12月26日、27日 渋谷公会堂1990年2月4日 日本武道館(復活公演)3月6日 渋谷公会堂3月9日 名古屋市公会堂3月15日 静岡県民文化会館3月19日 水戸市民会館3月23日 郡山市民文化センター3月28日 新潟産業文化センター4月2日 福井市文化会館4月4日 石川厚生年金会館4月9日 札幌市民文化会館4月11日 青森市文化会館4月17日 福岡ももちパレス4月20日 福岡市民会館5月7日、9日 日本武道館(12月26日、27日の振替)TOUR FINAL5月17日 大阪城ホール, 12月8日、9日 東京ベイNKホール入場者全員にクロマツの種入りMESSAGE CD(黒缶)配布。, 2月2日 青森市民文化会館2月3日 岩手教育会館2月4日 秋田産業会館2月7日 浦和市文化センター2月10日 長野市民会館2月11日 松本社会文化会館2月12日 山梨県民会館2月15日 福島市公会堂2月16日 仙台イズミティ212月17日 栃木会館2月18日 水戸市民会館2月20日 宮崎MRTホール2月21日 鹿児島市民文化会館2月22日 長崎市民会館2月23日 大分農業会館2月25日 メルパルクホール熊本2月26日 メルパルクホール福岡3月1日 新潟県民会館3月2日 富山県民会館3月3日 石川厚生年金会館3月5日 福井市文化会館3月7日 高松市民会館3月8日 愛媛県民文化会館3月10日 高知RKCホール3月11日 徳島県郷土文化会館3月13日 京都会館第2ホール3月14日 神戸国際会館3月15日 静岡市民文化会館3月18日 札幌市民会館3月19日 旭川市公会堂3月20日 北見経済センター3月22日 大阪厚生年金会館3月23日 名古屋市公会堂3月25日 徳山市民文化会館3月26日 岡山市民文化会館3月28日 広島メルパルクホール4月6日 川崎CLUB CITTA' (3回公演)入場者全員にキタヤマスギの種入りMESSAGE CD(赤缶)配布。, 8月6日、8日 新潟市産業振興センター8月15日、16日 福岡国際センター8月23日 東京ドーム9月8日、9日 名古屋市総合体育館レインボーホール9月14日、15日 大阪城ホール9月24日 広島サンプラザ9月28日 真駒内アイスアリーナ10月5日 盛岡市アイスアリーナ10月24日、25日 横浜アリーナ[注 16]11月12日、13日 横浜アリーナ, 10月17日 「Xと仲間達」 日清パワーステーション10月18日 「静かなX」 日清パワーステーション10月19日 「変なX」 日清パワーステーション, 7月1日 調布市グリーンホール7月2日 千葉県文化会館大ホール7月5日 山梨県立県民文化ホール小ホール7月6日 長野県県民文化会館中ホール7月7日 長野県松本文化会館中ホール7月9日 高松市民会館7月10日 愛媛県県民文化会館サブホール7月12日 鹿児島谷山サザンホール7月13日 福岡電気ホール7月14日 長崎平和会館7月16日 熊本県立劇場演劇ホール7月17日 大分県農業会館7月19日 広島アステールプラザ大ホール7月21日 和歌山市民会館7月23日 山形県県民会館7月24日 新潟フェイズ7月25日 新潟フェイズ7月27日 埼玉会館大ホール7月28日 豊橋勤労福祉会館7月29日 名古屋市民会館7月30日 福井県民会館8月2日 金沢市文化ホール8月3日 富山県教育会館8月5日 市川市文化会館8月6日 栃木県総合文化センター8月7日 神奈川県民ホール8月8日 厚木市文化会館8月10日 静岡市民文化会館8月11日 浜松市民会館8月12日 京都会館第二ホール8月13日 奈良県文化会館8月14日 岡崎市文化ホール8月16日 渋谷公会堂8月20日 青森市民文化ホール8月21日 盛岡劇場8月22日 秋田県児童会館8月23日 弘前文化センター8月25日 札幌市民会館8月27日 郡山市民文化センター8月28日 仙台イズミティ218月30日 横須賀市文化会館8月31日 水戸市民会館9月3日 群馬音楽センター9月6日 神戸国際会館9月7日 大阪サンケイホール9月8日 大阪サンケイホール9月10日 四日市市文化会館, 9月24日 福岡サンパレス9月28日 仙台サンプラザ10月1日 名古屋市総合体育館レインボーホール10月4日 広島アステールプラザ10月12日 大阪城ホール10月14日 日本武道館10月19日 札幌市民会館, 11月29日 山形市総合スポーツセンター12月3日、4日 月寒グリーンドーム12月20日、21日 仙台市体育館12月30日、31日 東京ドーム1996年1月14日 福岡ドーム(延期)1月31日 広島グリーンアリーナ2月7日、8日 新潟市産業振興センター2月23日、24日 大阪城ホール3月13日 名古屋市総合体育館レインボーホール(YOSHIKIが頸椎椎間板ヘルニアを発症、以降のツアー中止。)3月14日名古屋レインボーホール3月23日 福岡ドーム3月27日、28日、30日 横浜アリーナ, 1月13日 大宮ソニックシティ1月14日 広島アステールプラザ1月15日 福岡市民会館1月16日 大阪厚生年金会館1月18日 札幌市民会館1月20日 仙台イズミティ211月22日 新潟テルサ1月24日 名古屋市民会館1月26日、27日 東京国際フォーラムホールA2月3日 Cafe Le PSYENCE2月23日 韓国 SEOUL'88 体育館, 3月28日 「破壊の夜」 東京ドーム3月29日 「無謀な夜」 東京ドーム3月30日 「創造の夜」 東京ドーム, 5月2日 「無敵な夜」 東京ドーム5月3日 「18回目の夜〜SPECIAL」 東京ドーム, 1月6日 アメリカ合衆国 L.A.センタースタジオ1月7日 アメリカ合衆国 L.A.シアター1月8日 アメリカ合衆国 L.A.シアター1月9日 アメリカ合衆国 コダックシアター1月12日 アメリカ合衆国 ロサンゼルス1月13日 アメリカ合衆国 ロサンゼルス1月14日 アメリカ合衆国 ロサンゼルス, 8月14日 「再会の夜」 横浜国際総合競技場(日産スタジアム)8月15日 「真夏の夜」 横浜国際総合競技場(日産スタジアム), 9月25日 アメリカ合衆国 ウィルターン・シアター9月28日 アメリカ合衆国 フォックス・シアター10月1日 アメリカ合衆国 パラマウント・シアター(英語版)10月3日 カナダ クイーン・エリザベス・シアター10月6日 アメリカ合衆国 リヴィエラ・シアター10月7日 カナダ マッセイ・ホール10月10日 ローズランド・ボールルーム, 6月28日 イギリス シェパーズ・ブッシュ・エンパイア7月1日 フランス Le Zenith7月2日 オランダ Tivoli7月4日 ドイツ Columbiahalle, 8月13日 舞洲サマーソニック大阪特設会場8月14日 千葉マリンスタジアム(QVCマリンフィールド)&幕張メッセ, 9月9日  チリ Teatro Caupolican9月11日 ブラジル HSBC Brasil(現名・Tom Brasil)9月14日 アルゼンチン Teatro Colegiales(現名・Teatro Vorterix)9月16日 ペルー Scencia Hall9月18日 メキシコ Circo Volador, 10月28日 韓国 オリンピック第1体育館10月30日 中華人民共和国 上海体育館 epoが、4月1日より手数料を改定する旨公表しました。 あらゆる項目で値上げが予定されており、値上げ率は平均で約4%となります。 中でも、審判請求料は約20%の大幅値上げとなります。 !』の「ヘビメタコーナー」に出演していた[13][注 2]。ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ大運動会」[15]や、「早朝シリーズ」(就寝中の芸能人の部屋に侵入してバズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)の一つである「早朝ヘビメタ」などで話題となる。狭い食堂で「オルガスム」を演奏する同番組の企画「やしろ食堂ライブ」は、HIDEのX加入後の初仕事となった。しかしその世界観を硬派なイメージで保とうとする当時の音楽業界、特にロック界の風潮の中で「(音楽番組以外の)テレビ出演」はタブー視されていたため、業界関係者や他のバンドから「ヘヴィメタルをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られていた。, テレビ出演をきっかけに知名度が全国区へと広まったXは、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にオリジナル映像を収録したVHSを客に配布した[16]。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫[16]、電子レンジ、トラックなどのアイデアが出ていた。他のバンドよりプロモーションを積極的に行っていたため、他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていた。, 1988年4月、1作目のアルバム『Vanishing Vision』をリリース。発売1週間で、当時としては異例の初回プレス分1万枚を完売した。『Vanishing Vision』は、メジャー・レーベルから発売される可能性もあったが、YOSHIKIは「インディーズでまだ何も残していない」として、敢えてエクスタシーレコードからリリースした。並行して数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進め、Xを巡ってレコード会社の間で争奪戦となったが、最終的にCBSソニーと契約。XがCBSソニーと契約した理由は、交渉にあたった他社のディレクター達があまりに横柄な態度をとっていたためである。これにメンバーが怒りを覚えたため、交渉は冷静に対応できるYOSHIKIが担当したといわれる。契約金や契約期間などの条件が最も低かったことも、「絶対に売れてこいつらを見返してやる」という反骨心が生まれ、契約を決めた一因となった。, 契約したCBSソニーも交渉当初は積極的ではなかったが、当時スカウト・育成部門所属だった津田直士が新規プロジェクトチームに配属となった事から、津田直士自らがディレクターとなりXと会社を説得。マネジメントまで引き受けることとなった。同時にX専用のプライベート・レーベル「SIREN SONG」が設立された。, なお、ライブでお馴染みとなっているXジャンプの起源は、1988年7月19日に仙台のライブハウス『フォーラスモーニングムーン』で行われたライブである。2度目のアンコールで「X」を演奏していた際、サビの部分でギターのHIDEが突然ジャンプをして、観客にもジャンプするようジェスチャーで煽ったのをきっかけに始まった。この時ジャンプに応じたファンは数人であったが、ステージ上でHIDEの様子を見ていたベースのTAIJIが直後からジャンプに応じ、少し遅れてPATAもジャンプし始めた。しかしまだ慣れていないため、ジャンプするたびに3人とも音が外れてしまっていた。, 1988年6月24日には、スピンオフ的な企画としてL.O.Xのレコーディングを開始した。L.O.XはLip CreamのNAOKI(ギター)、ORANGEのACT(ベース)、XのYOSHIKI(ドラムス、クレジットは「白鳥麗(REI)」)で結成されたハードコア・パンク・バンドである。, 1989年4月21日、CBSソニー / Siren Songから2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でメジャー・デビュー。オリコンでは初登場6位を記録した。当時の音楽業界はミリオンヒットが珍しい時代であり、トップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだった中、1989年だけで60万枚のセールスを記録した。また6月頃にメンバーが海外にVIDEO撮影や曲作りの為に滞在していた。同年9月に「紅」をシングル・カット。音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与えた。この時も、Xのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論が浴びせられるも順調に向かっている様子に見えたが、同年11月23日に渋谷公会堂のライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期された。以降、YOSHIKIは常に首や腕に「爆弾」を抱えながらバンド活動を続ける事となる。そんな中も、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を受賞した。同時期に作品のレコーディングを行っていたL.O.Xのメンバーもレコーディングに参加していた。, 1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開し、5月の大阪城ホールライブをもってツアーを終えた。11月には次のアルバムのレコーディングのために渡米した。本人達が不在の間にも、フィルム・コンサート『X FILM GIGS 〜血と薔薇にまみれて〜』を行い、成功させた。, 1990年5月25日、約2年半にわたるレコーディングの末に、L.O.Xの唯一のアルバムである『Shake Hand』がリリースされた。, アメリカ・ロサンゼルスでレコーディング中に、YOSHIKIが高速ナンバー「Stab Me In The Back」のドラムレコーディング後に発症した頸椎椎間板ヘルニアで、以降のレコーディングのスケジュールが大幅に延期された。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされたため、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、3作目のアルバム『Jealousy』をリリース。オリコンチャート1位を記録する。コンサート・ツアー『Violence In Jealousy Tour 1991 〜夢の中にだけ生きて〜』を行い、8月23日には初の東京ドーム公演を果たした。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えた。12月8日にNHKホールで、『X with Orchestra』を開催した。12月20日のツアーファイナルの武道館でFILM GIGのダブルアンコールに本人たちが登場し、この頃に一部新聞で報道された解散説をYOSHIKI自ら否定。12月31日には『第42回NHK紅白歌合戦』に出場した。, 1992年1月5、6、7日には、日本人アーティストとして初となる東京ドーム3日間連続公演『破滅に向かって』を開催し、延べ12万人を動員した。同年1月31日の『ミュージックステーション』でビデオメッセージを通じて、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後TAIJIは著書『伝説のバンド「X」の生と死―宇宙を翔ける友へ』の中で「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。同じ著書の中では「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」、「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」、「YOSHIKIのドラムプレイに対して平気でダメ出しをする様になって、YOSHIKIとの間に軋轢が生じたからではないか」と述べている。一方、YOSHIKIは自伝『YOSHIKI/佳樹』の中で「TAIJIのベースはXに必要だったが、YOSHIKIとTAIJIの間での約束をいとも簡単に破ったこと」を理由としている。, 1992年4月20日付けでソニーとの契約が切れた。5月中旬に行われたソニーの役員会の席で「YOSHIKIのわがままを止められない」という声が流れ、その一因にYOSHIKIのレコーディングの妥協の無さとマネジメントと流通がソニーの丸抱えで「アーティストとレコード会社が対等に付き合うためには、事務所が独立してないといけない」という考えからきており、YOSHIKI自身も1991年から独立の準備をしていた[17]。Xは、1992年8月24日にニューヨークのロックフェラー・センターで記者会見を開き、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナーと契約したことと、新しいベーシストとしてHEATHが加入したことを発表した。海外ではアトランティックレーベル、日本ではワーナーミュージック・ジャパンから作品をリリースすることとなった。しかし、先行して映画「メジャーリーグ」の『恋はワイルド・シング(Wild Thing)』で世界的に有名になったロサンゼルスの同名バンド「X」が存在したため、X JAPANに改名した(当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)[18]。日本でも1993年12月24日に東京ベイNKホールで行われた『ミュージックステーションスーパーライブ93』に出演するなどしていた。, ワーナーミュージック・ジャパンとの契約後に最初に取り組んだのが、『Jealousy』に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのボーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。, これと並行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX JAPAN本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどしたために、X JAPANのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、X JAPANのニューアルバムのレコーディングは遅々として進まなかった。, 本来、『Jealousy』に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされる予定で、『日本向けと海外向けの2作品を同時に制作中』『過去の楽曲の英詞ヴァージョンをレコーディング中』だったが、TOSHIの英語の発音の問題で海外進出を断念[19]。, 長期にわたるレコーディングはワーナーミュージック・ジャパンとの関係をも悪化させる。完成していないマスターテープを担保にした銀行融資も、ままならなくなり、YOSHIKIは愛車フェラーリを制作費捻出のために売却しレコーディングを続行。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング作業を維持するために、苦肉の策として仕上った楽曲を次々とシングルとしてリリース。YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアのために数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念した[19]。, ニューアルバムのレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、全国ツアー『DAHLIA TOUR 1995-1996』が開始。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1 - 2週間に1カ所で2日間という日程だったが、翌1996年3月13日、名古屋公演1日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発したことで、以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。福岡の延期を除く18公演中、7公演が中止となった。福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止となった。, 長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリース。しかし5年4か月もの歳月を掛けたにも関わらず、アルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなった。この頃から、TOSHIはX JAPANの存在と活動に息苦しさを感じるようになったと発言している。, 1996年12月、『DAHLIA TOUR 1995-1996』のツアーファイナルとなる、『DAHLIA TOUR FINAL』を東京ドームで開催。, 1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のボーカルを見つけられなかったため、9月22日に記者会見を開き、当日をもってX JAPANの解散を発表。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームにてラストライブ『THE LAST LIVE〜最後の夜〜』を開催、コンサート終了後に出演した『第48回NHK紅白歌合戦』のステージで幕引きとなった。, 残ったメンバーは2000年に新たなボーカリストを加えた形で再結成することを予定し、それまでの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝。その後『Art of life live』や『THE LAST LIVE〜最後の夜〜』などのライブ・アルバムやライブDVD、ファン投票によるベスト・アルバム『X JAPAN BEST 〜FAN'S SELECTION〜』のリリース、全国主要都市や韓国・ソウルで『FILM GIG』開催などが続いた。, HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった当時の小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCMで使われた[20][21]。しかし、その一方でTOSHIの洗脳疑惑騒動やYOSHIKIの迷走などかつてのファンを不安にさせるニュースも数多く報道されていた。特にYOSHIKIは日本で表立った音楽活動をほとんど行わなくなり、アメリカでViolet UKの活動を主体にプロジェクトを進めていた。これには、公私共に深い信頼関係にあったHIDEの死去が自身に与えた精神的なダメージが大きかったためであることを後に語っている。, 2002年、YOSHIKIはゲスト出演したNHKの『わたしはあきらめない』で解散の直接的原因となったTOSHIについて、「TOSHIの声を道具のように扱っていた」と、自身の行いに問題があったという内容の発言をしている。HIDE死後の転機となったのが、『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』で奉祝曲「Anniversary」を演奏した際に受けたファンの歓声であったとしている。この模様は後日、未放送部分が付け加えられ番組単行本に纏められている。しかし、当時のTOSHIは「自分はテレビを見ないので知らない」と受け入れることは無かった。, 韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画で初の日本語楽曲使用となった。ヨーロッパではX JAPANの楽曲をカヴァーするバンドも現れた。後述の再結成発表の場でもアジア圏から東京に駆けつけたファンやリアルタイムでX JAPANを知らない若者たちの姿などが多く報道されていた。, 2007年2月10日にTOSHIが自身のホームページで、X JAPANのかつてのマネージメント事務所の社長がTOSHIのライヴ会場に何度も足を運び、「他のメンバーが再結成したがっているがTOSHIはどうだろうか」と頼んで来たと述べている。再結成に対して否定的であったTOSHIは、最初は頑なに断り続けていたが、あまりにも何度も来られたため、YOSHIKIにも確認し、共通の友人でもある小室哲哉にも応援と期待を頂いて話を進めていると明かした。同年3月21日にはTOSHIが自身のホームページで、ロサンゼルスのYOSHIKIのスタジオを訪ね、およそ10年ぶりに共に演奏したことを明らかにした。その際にセッションした楽曲はYOSHIKIがHIDEへの追悼曲として作曲し、2005年のYOSHIKIのクラシック・アルバム『ETERNAL MELODY II』に収録していた「Without You」であったことも明かし、YOSHIKIとのプロジェクトや新曲のリリースの動きが進行していることをほのめかした。その後、同年6月にYOSHIKIはスポニチの取材に対し、再結成に向けて話を進めていることを認めた[22]。, 同年10月18日、公式ホームページで活動再開が正式に発表された。東京都港区台場のアクアシティお台場屋上で、新曲「I.V.」のプロモーション・ビデオの公開撮影を10月22日に行う旨が報道された[23]。当日の撮影ではYOSHIKIに抱きかかえられたHIDEの人形も揃い、10年ぶりにX JAPANの『5人』が台場に集まったファンの前に姿を見せた。このミュージック・ビデオでは『HIDEも世界に連れて行く』という意味を込めてHIDEのステージ・ポジションにマイク・スタンドとギターが設置されていた。撮影終了後には2008年春を目処に東京で再結成コンサートを計画していることなども明らかにされた。「I.V.」は亡きHIDEのギター音をデジタル加工して使用するなど、X JAPAN5人の楽曲として制作され、2008年1月23日にリリースされた。ハリウッド映画『SAW4』のメイン・テーマ・ソングとして採用された。撮影されたミュージック・ビデオは、2008年2月29日に発売された『X JAPAN RETURNS 完全版 DVD-BOX』に収録された。, 後日、TVでインタビューでYOSHIKIは「X JAPANに終止符を打つための再結成で綺麗な形で終わらせるためであり、長期間の活動はしない」と語った。HIDEの後任のギタリストは、ゲストと言う形をとり、HIDEのポジションを空けておく、X JAPANは常にHIDEと一緒という発言から新たにHIDEのギターを収録することが不可能なことやToshlとの確執が完全に解消されたわけではないと述べた。TOSHIは復活後のソロコンサートで「X JAPANもやりながら癒しの音楽もやっていきたい」と語っていた。, 2008年1月20日に渋谷Apple Storeで記者会見が行われ、同年3月28日、30日に、東京ドームで2日間の再結成コンサートが行われることが発表された。同日の夕方にはタワーレコード渋谷店で、X JAPANメンバーと招待されたファン160人によるトーク・ライブが行われた。会見当日に先行予約が開始されたが、予想以上の反響があったため、当初の予定を変更しドームの後方席も開放し増席することと、夏以降の追加公演が発表された。X JAPANにとって初の海外公演となる欧米・アジアツアーが年内に発表されるとも語った[24]。再結成コンサートは『X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V.